あっという間に10年が過ぎた。
あの時の記憶は鮮明に刻まれている。
つい先日も大きな地震が東北を襲ったばかりだ。
今回は旅先で災害にあったらどう行動するか というお話。
あの日
まだ雪の残る新潟県の新発田で仕事をしていた。
昼ごはんを食べてホット一息付いていると足元から不気味な振動が伝わってきた。
地震だ。しかもかなり大きい。
新築の建物内に居たが、免震構造でエネルギーが吸収されていたにもかかわらず、窓の外の免震エリアは最大幅の限界値を超え、建物が大きくスライドしているのがハッキリと分かる。
ゴーーーン、ゴーーーン
巨大な建物と地面が免震エリアでぶつかっている音。
その音が建物全体に響き渡り、巨大な鐘の音のように建物内にこだまする。
あちこちで悲鳴が沸き起こり廊下を走り回る人の姿が目に飛び込んできた。
【地震だ!】
一言、ガラケーで妻にメールを送るのがやっとだった。
その後、ガラケーは音声もメールも不通になった。
しばらくすると揺れは収まったが、それに合わせてラウンジに人が集まってきた
テレビの映像が刻一刻と更新され、巨大な地震が東北エリアを襲ったことを伝えていた。
画面からは想像を絶する光景が流れてくる。
ラウンジの人々は釘付けになって画面に見入っている。
あの日の夜
ただ事ではない規模の災害が発生したことで今後の行動を仕事仲間と相談することになった。
仕事はまだ残っていたが、施設の担当者から中止の要望が出たため引き上げることになった。
新発田の駅前まで戻ってきたが、電車は運転見合わせ。
暫く様子を見ようと駅前の居酒屋に入ることにした。
テーブルを囲み、それぞれのガラケーを見せあいながらどのキャリアがまっさきに使えるようになるか画面を見ていた。
ドコモ以外は時折電波が繋がり、一瞬だが電話をかけることができたようだ。
しかし、自分のドコモは相変わらず不通が続き、連絡の取りようがない状況だ。
ユーザーが多すぎると、いざ、なにか大きな事変が起こったときに復旧も時間がかかるということか。
災害時の通信手段を確保するというのは非常に重要なのだと実感した。
日が暮れる頃、臨時の在来線が新潟まで出ることになり、他の仲間はその電車に乗り、とりあえず新潟まで戻ることになった。
自分は残ることにした。
余震が続いているなか携帯が繋がらずバッテリーが心もとない。当時は今ほどモバイルバッテリーが普及しておらず、ACコンセントからガラケーを充電する時代だった。連絡手段は絶対確保しておきたいという思いがあったのだ。
また余震が続く中、下手に動き回っても列車内に閉じ込められる可能性もある。新潟まで戻っても東京までの新幹線は動いているかどうかもわからない。新潟市内に宿を取れる保障はない。
あらゆる局面の情報が手に入らないのだ。
八方塞がりのなか動き回るより、たまたま新発田駅前のホテルに部屋を取れたので、震災初日の夜は新発田のホテルで過ごすことになった。
みんなと別れると少し心細くなったが、チェックインし服を着たままベッドに横たわると緊張感が幾分取れ、少し気持ちが落ち着いてきた。
テレビのニュースは音量を絞り着けっぱなしにしていた。いまだかつて見たこともないような光景が画面から流れてくる。映画の臨場感の遥か上を行く現実の災害の姿に体を震わせていた。
釘付けになっていたが、いつの間にかウトウトしていたようだ。
途端、大きな余震と同時にテレビから緊急地震速報の警報音。
キンコーーン、キンコーーン
一瞬で覚醒し、ベッドから飛び起きた。
この警報音は一発で人を最大限に緊張させる。
普通のチャイム音は心地良い響きだが、ほんのちょっと音階とリズムを工夫するだけでこれほど緊張感を煽る音になってしまうのだ。
作曲家のセンスに敬意を評したい。
しかし、この音は怖すぎる。
深夜になってもニュースのアナウンサーは必死に状況を伝えている。
ぼんやり眺めていると再び緊急地震速報の警報音。
そんな大きな余震が何度か続いたとき、部屋の窓がピシッと鳴った。視線を向けると窓の左下から右上に向かって大きな亀裂が入っていた。
怖くて一睡もできない状況で朝を迎えた。
翌日
翌日もガラケーは断続的に不通状態が続いていた。
なんとか妻と連絡は取れ安否確認はできたが、心配しているので一刻も早く家に戻りたい。
新幹線はまだ運休状態が続いており、いつ動くか未定とのこと。
もし動いたらすぐに乗ろうと思い新潟駅に向かったが、新潟駅の新幹線改札口は大混雑で運行状況を確認するだけでも何時間もかかるようだ。
今日戻るのは諦めた。
妻と断片的に会話ができたが、とりあえず無事ということだったので安全第一で行動することにした。
新潟市内に宿を取ろうとしたが携帯は使い物にならない。
運良く公衆電話を見つけることができた。すっかり見かけなくなったが、公衆電話網は災害時には強いらしく、問題なく使えるようだ。
何軒か電話をかけ続け、ようやく泊めてもらえるホテルが見つかった。
その後、公衆電話で妻と暫く話すことができた。
部屋は割れた食器が散乱したようだがとりあえず電気も水も使えるということだった。
声で安否確認をできたことでかなり安心することができた。
翌日の夜
震災から二日目の夜を別のホテルの部屋で過ごしたが、時折まどろむ程度で朝を迎えた。
緊急地震速報の警報音は昨夜に比べると鳴る回数は減ったが、そのぶん突然なったときの恐怖は一層増すように感じる。
テレビのニュースは信じられない光景を映し出していたが、震災から2日が過ぎると全容が見えてきて、世界中から支援の動きも出てくるようになった。
災害復旧に向けた動きも各所で広がり、重機が忙しく動き回っている。
こういうときの日本の復旧に向けた動きは眼を見張るものがある。各地で一斉に作業が開始され、みるみる道路が整備されていく。
世界に誇れる資質だと思う。
新幹線もようやく動き出したようで、改札口に向かうと昨夜の人混みは幾分和らいでいた。
車内に乗り込み座席に座ると、誰もが緊張感と疲労感に満ちて押し黙っている。
それでも新幹線が動き出すと、余震の恐怖は片隅に残っていたが、これでようやく家に帰れるという安堵感に包まれた。
玄関を開けると今にも泣き出しそうな妻の顔に出迎えられた。
災害時の行動指針
災害が起こると、誰もが正確な情報を得ようと奔走するが、当時はスマホなどほとんど普及しておらず、SNSなどは夢のまた夢。情報確認の手段はテレビやラジオしかない時代だった。
今でこそスマホが普及し、地震速報も直ちに入ってくるようなインフラが出来上がったが、必ずしもそのインフラが正常に使えるという保証はどこにもない。
また入手できた情報が正しいという保証もどこにもない。
むしろあらゆる情報が溢れかえり、錯綜し、パニックからデマも流れるようになる。
予め頭の中でどんなにシミュレーションを繰り返していても、
現実は人の想像の遥か上を動いていく。
突然の災害に見舞われた場合、
まずは冷静になることを心がけ、
自分の頭で考えることを最優先にする。
その後のことは臨機応変に、
現場の状況に合わせ対応する。
これが災害に直面したとき、自分なりの行動指針。
被災地は未だ多くの人達が住む家を追われ、過酷な状況を過ごしている。
十分すぎるほど頑張って、踏ん張っている人達に対して、今更ながら頑張ってくださいなどとは簡単に言えないが、それでも人はいつかきっと立ち上がり、儚いながらも力強く人は生きていく。
そんな思いをいつも心の片隅に抱いている。
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